乱読の暁

文庫系
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 今日も来て頂きありがとうございます。

 先日、英語と現代文と小論文は三位一体、という事実に気づき、遠藤嘉基、渡辺実「現代文解釈の基礎 新訂版」に手を付けています。

 僕は大学受験時は私立理系希望だったんで、国語の勉強を殆どやらず、当時のセンター試験で国語偏差値23という前代未聞の数字を叩き出す程、日本語を分かってない男でした。国語の勉強って何をやったら良いか分からなかった、というのが、当時考えていた事でした。予備校にも通ってなかったですし。

 時は四半世紀過ぎ、まさか今更現代文かよ、とか思いながら、現代文解釈を読んでいますが、現代文がこんなに楽しいものかと、当時から思えば全くあり得ない感情に浸っております。いつの間にか読めるようになっているんですよ。別の意味で愕然としています。あの高校生時代とはなんだったのか。

 まあ、四半世紀経っているんで、それなりに読めるようにはなってはいるんでしょうけど、それにしたって、ここまで論理立てて確実に真意を捉え問いに答えられてる自分がいるのには、正直びっくりしています。いつの間にそんなに読めるようになっとるんやと。

 さすがに怖くて、何故こうも現代文が読めるようになっているのか、と理由探しをしましたが、答えは簡単に見つかりました。あの頃に比べて読書量が絶対的に増えてるからです。確実に量を読んでます。

 本を読む、と言っても、僕は大概な飽き性なんで、1冊の本を集中的に読む事はせず、2,3冊をパラレルで読んでます。よく他人から、ようそんな筋がこんがらがる読み方するな、と言われる事がありますが、僕としてはその時に読んでる本の筋はどれも覚えてますし(読後は覚えてたり覚えてなかったり)その時のフィーリングで本を選んでいるんで、読書の時間が楽しくてなりません。語学の時間も欲しいけど、純粋な読書の時間ももっと欲しいです。

 読み方は大概ですけど、社会人になってから(大学生の時はそんなに読んでなかった)本を読むようになって、それなりに言ってる事を理解できるようになっていたんですね。これは嬉しい誤算でした。

 それ以外にも、仕事はコミュニケーション大事、と思いながら仕事をしている(これは、僕がそういう職種だからではなく、どの職種でも土台と成り得ます)事も関係してくるかもしれませんが、少なくとも読書をする事で色々な事がブラッシュアップされているんだな、と改めて思いました。

 英語と現代文と小論文は三位一体、の話に戻しますと、英語だけやってても頭打ちになる事があるのは実感してます。小論文は社会人には関係ないんちゃうか、と思われるかもしれませんが、文を書く、という行為は、高度な仕事に従事したいと考える方々にとっては避けては通れない道です。そして、それらを支えているのが国語力、というより現代文解釈能力です。そして、国語力を養うのに最適なのは、本を読む事です。

 だから本を読め、となる訳ですが、いきなり何を読んだらええか分からない、という話も分かりますし、読書そのものの敷居が高く感じる人がいる事実も知っています。幸い、読書術だけで様々な本がありもします。ただここで、読書論を打つ事は僕はしません。僕の読書はどう考えても亜流だからです。人には勧めません。

 でも、アプローチはともかくとして、本を読んでいるという事実は事実ですし、実際に養われた力も(無自覚に)備わった事を考えると、単純に本を読むって素晴らしい事なんやで、と伝えたい訳です。少なくとも、拙ブログに来て頂いた方々は、言語を修得したい、と考えていると方々だと思うんで、言語一本槍ではなく、読書も助けになる事を知ってもらいたいです。

 今回もお付き合い頂き、ありがとうございました。


着眼と考え方 現代文解釈の基礎〔新訂版〕 (ちくま学芸文庫)

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