今日も来て頂きありがとうございます。
思うところあり、岸見一郎、古賀史健「嫌われる勇気」を再読しました。ご存知の通り、アドラー心理学2部作の1部目です。2部目の「幸せになる勇気」も今月中に再読できればと思ってます。
今回引っかかったのは自己受容という単語です。対人関係において、課題の分離を行い、自己を受け入れ、他者を信頼し、他者に対して貢献していけば、世界の見え方が変わり、共同体感覚に対して貢献感を持ち、結果幸せを感じる。と言った話やったと思います。(確か。近いうちにまた読む予定です)その自己を受け入れる、という部分の話です。
僕は僕と言う人間が好きではありません。他の誰かに何かを提供した事はありませんし(あるのかも知れませんが、記憶にありません)提供できるものというのがわかってません。世界はおそろしく個人的で、こんな僕がおる必要性がないんちゃうか、としょっちゅう思ってます。
まあ、自分を信頼してない人間が、どう他人を信頼できるか、という話です。
ただ今回思ったのは、見方を変えれば感じ方も違うよね、という事です。僕自身未完成の人間で、完成される事は生涯無いという考え方をずっと持ってます。そうなると、未完成な僕は未だに受け入れられない、と考えてしまいます。これはある意味、残酷な考え方です。
この未完成だから受け入れられない、という捉え方ではなく、足りないところもそれはそれで僕なんや、と捉えると世界の見え方が変わってくるんかなと。
勿論それが努力をしなくていい理由にはなりませんが、少なくても心の在り方が軽くなるとは思います。どんな自分でもそれはそれでいいんやと。
誰が一番自分自身を信じなければならないか。それは自分自身なんですよね。他人にどう働きかけるかはそこからなんですよ。まずは自分自身を信じてみようと思います。僕か気づいてないだけで、何か良い所があるんでしょう、多分。
今回もお付き合い頂き、ありがとうございました。
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